筆者近影
雪に、月に、花に、一として喜憂の種を宿さざるなきは、
おんなの常である。

木の葉の落つるを見て笑いを禁じ得ざる時代より、
水の流れに我が行く末を案じて嘆く時代まで、
通じて女性はあくまでも感情的である。

笑みと而して涙とは感情の結晶にして女性の生命である。
実に女性は情緒的である。

(太田 金次郎/定 担当弁護士)




           【 あ  と  が  き 】



  阿部定が意識されるようになったのは、いつごろからだったっけ?
  それはべつに、事件現場がウチの近所だった、
  ってことを知った昨年からなんじゃない。
  それはホントに、「たまたま近所だった」ってだけ。
  いや、、、それを知ったときは、「なるべくして近所だったのか?」
  なんてこともよぎったかも。
  そうだ。
  そう思ったから、なおいっそう、
  彼女のことを識りたい、と思ったんじゃないか。



  性的に関係を持つことをよく、「最後まで行く」とか云う。
  でも、そのおこないが本当に「最後」なのだとしたら、
  それは、なんてあっけない“ゴール”なんだ?

  ましてや、ある程度「オトナ」になれば、
  お互いがそうなることを求めている、っていう
  思いの片鱗だけでも通じ合ってしまったら
  あとはもう、「時間の問題」でしょ。
  まだまだ相当若いのならば、
  「付き合って○ヶ月経ってからじゃないと、やっぱ、そこまではね、、、」とか、
  「デートも、○回すれば、そろそろいいかな」とか、あるんだろうけど、
  年重ねてればさ、そんなん、「時間の問題」でしょ。
  本人たちの気持ち次第でしょ。
  そうなるまでの時間に「早い」も「遅い」もないでしょ。
  タイミング次第で、なるべくしてそうなっていくものでしょ。

  となれば、そうなることを、ほんとに、
 「最後まで行っちゃった」とか表現するのならば
  なんとまぁ、あっけない“頂上”だこと。

  要するに、、、
  それだけでは「もの足りない」ということ。
  だってあれは、ただ、
  「究極の愛情表現」の延長線上にある、
  ちょっとしたひとつの行動にすぎない。

  そのおこないよりも、もっと強く、より深く
  相手に「想い」を伝える手段というのは、ないものか。
  相手の「想い」を感じる手段というのは、ないものか。
  (それは、まるで空論!、と誰からも云われそうだけれども、)
  相手を深く想えば想うほど、
  そういった願望というのは、比例してデカくなっていくんだ。

  ましてや、性的な関係が、必ずしも
  “愛情表現”という山のてっぺんに君臨してるわけじゃない、  
  ってことなんて、みんながわかってる、コノ時代。
  
  ただ、その山のてっぺんには何があるのか、それはワカラナイ。


  ■   こどもをつくる、とか?

  。。。ちがう、ちがうんだ、
  求めているのは、そういった愛の形とは、ちょっと違う。
  いや、大いに違うんだ。
  「こども」というのは、私の中では、恋愛性に欠ける。
  あくまで私の追求したいことっていうのは、そこにあるのだもの。


  ■   相手のことを好きなあまり、猟奇的行動に出てしまう?

  。。。いや、それもちがうなー。
  相手が死んじゃったら、気持ちの呼応が不可能になってしまう。
  それじゃあ、元も子もないよなー。

  いやしかし、これまで、恋愛という関係のなかで、
  猟奇的行動に移ってしまったひとっているけど、
  どーしてまた、そんなことになっちゃったんだろ。
  そういえば、阿部定っていたっけな。
  急所・切断・持ち歩き、でしょ。
  究極だー。
  なんでナンデ?なんでまた?
  そうなった経緯を、本人に直接伺ってみたいくらい
  かなーり興味あるなー。
  相手の‘ソレ’が、なんとも愛しくって、たまらなくなっちゃって、
  とうとう切ってしまった?
  どんなに努力してみたって、♀には手に入れられないものだもんねぇ。

  デパートにマフラーとか買いに行く感覚で、
  簡単に自分のものに出来る、ってワケでもないしさぁ。
  漠然と、「欲しいなー。」って思うことあるもの。
  それこそ、性的欲求はゼロだよ。
  だから、オトナ玩具とはちがうの。
  なんというか、携帯のストラップとか、
  そーいう感覚で、欲しいんだよ。
  口寂しいトキなんかにさぁ、タバコ吸ってた頃みたいに、ね?
  しかも、肺ガンになる恐れも一切ナシ。
  口動かしてりゃ、小顔運動にもなるんじゃないか?
  しかもノンカロリー。
  太りたくない女子どもには、うってつけ、ダロ?
  だから、バッグの中に、ひとっつくらい忍ばせとこう。


  こういうの、「局所崇拝症」ていうらしい。
  やだなー。自分の漠とした心理が
  どうして「症」のつくもので、表されちゃうよ?
  なんか、ココロのビョーキを背負ってしまったようで、
  イヤ〜な感じィ〜。

  そして、わたしは、
  阿部定も局所崇拝症に違いない、と勝手に決め付けていた。

  そんなこと漠然と思ってた中、昨年の晩春だったかに、
  阿部定事件が尾久で起きたことを知り、
  こういうページを作るまでに至った。  
  
  けれど判ったことには、彼女は、局所崇拝症なんかじゃなかった。
  だって、阿部定事件とは、
  ただの「純愛と嫉妬のなれの果て」だったんだもの。
  彼女は、、、同士ではなかったよ。
  むしろ、ある意味、彼女のほうがよっぽど「常人」ダ。


  ハナシを戻すンですけどね、いえね、結局、その、
  自分が完全に満たされるための「愛し合う手段」だなんて、
  見つかってはいないよ。
  きっと一生見つからない。
  けど、それを追求し続けることこそが、
  まだまだこれから数十年間と続くだろう人生における
  「テーマ」になるんだろう。


                 平成15年  冬    * * * 美 奈


  【 もしもじぶん、あとになって、イヤんなってきたら、
     これ、予告ナシに消す。この無責任さ、ご勘弁の程。】


定 Top−1−−2−−3−−4−−5−−6−−加筆−